
北海道函館西高等学校
第5回生 山 岸 光 生
昭和30年卒業、第5回生、山岸と申します。
卒業してから早いもので、70年が経ちました。
先ずは、この会が出来てから、創基120年だそうで、心からお祝いを申しあげます。
おめでとうございました。
高齢にも拘わらず元気にさえしていれば、こうして記念すべき同窓会にも参加出来、しかも、何か話す機会まで与えて頂き、望外の喜びで、心から感謝いたしております。
同期には、元函館市長の故井上博志君や歌手の北島三郎君がおり、クラブ活動では、ボート部に所属し、キャプテンを務めておりました。
卒業の前の年の昭和29年は、洞爺丸事件などがあり、函館は不況のどん底で、就職先も決まらず、焦っていたところ、担任の先生から「警察官になれ」と奨められ、採用試験に応募、合格した同期の6人とともに、昭和30年3月、当時、旭川市にあった北海道警察学校に入校いたしました。
警察官として40年、皆で頑張って来ましたが、現在、私一人だけになってしまい、誠に痛恨の極みであります。
本部の総会には、初めての参加ですが、せっかくの機会ですので、私の承知している洞爺丸事件のことと、親友・北島サブちゃんとの思い出について、お話ししてみたいと思います。
先ず、洞爺丸事件のことですが、あれは、今から、71年前の昭和29年9月26日のことで、当時、私は西高の3年生でした。
その日の午後10時45分頃、函館港から出港していた青函連絡船『洞爺丸』が、強風に煽られ、七重浜沖1キロのところで横転、死者1,155人も出したという大惨事のことで、原因は、「台風接近にも拘わらず、無理に出向したこと」、「2本の錨のうち、1本が切れて船が振り回されたこと」、更には、「後ろの開口部から大量の海水が入り込んだこと」などと言われていましたが、当時、巷では、「無理して出港したのは、洞爺丸に偉い人が乗っていて、その人の強い圧力があったからだ」とか、「船長は、昔から慎重な人で、出港を嫌がっていた」とかの噂話が、まことしやかに街中に流れておりました。
事件発生の第一報は、上磯まで乗客を送ったタクシーが、その帰り七重浜で助けを求めていた乗船客らを見つけ、洞爺丸の転覆を知って警察へ通報したとされています。これらは、何れも、当時の噂話で、真偽の程は定かじゃありませんが、ただ、洞爺丸が転覆した頃、何艘かの船が、一斉に「ボーボー」と汽笛を鳴らしており、あれは、助けを求めていた連絡船の合図・悲鳴じゃなかったのかと思っています。
翌朝、ラジオで5艘の連絡船がいっぺんに沈んだと言うニュースを聞き、驚いてしまいました。
朝、いつものとおり学校へ行ったところ、生徒は半分くらいしか来ておらず、即、休校になりましたが、仲間と屋上に上がり、沈没した洞爺丸に向かって手を合わせました。
海峡の女王と呼ばれた洞爺丸、ボートの練習のとき、いつも伴走していた憧れの船の
無残な姿に、只々、息を飲みました。
私の承知している洞爺丸事件の話は以上です。
何か悲しい話でしたので、次は、親友サブちゃんとの明るい思い出について、話してみたいと思います。
彼とは、3年生の時同じクラスで、1年間、机を並べておりました。
私の家が、元町の教会の近くにあったので、いつしか彼が下宿するようになり、二人とも歌が好きだったので、よく大門の公楽劇場に、岡晴夫・三橋美智也・春日八郎などの実演(歌謡ショウ)を観に行っておりました。
一年生の時も同じクラスでしたが、休み時間などに、彼は、よく鼻歌で演歌を歌っており、その節回しのうまさにクラス中がシーンとなり、トイレにいくのも忘れ、聴き惚れたものです。
HBC劇場で行われた、卒業生を送る夕べでは、殆ど、彼のワンマンショウだったと思います。
函館の港まつりや神社のお祭りで、歌謡大会が行われていましたが、そこにもよく出かけ、いつも優勝したり入賞したりしており、歌は「正に天下一品」だったと思います。
ただ、2年生の時、NHKの、「のど自慢大会」に出て、鐘が二つしか鳴らず、悔しがっていたこともありました。
お祭りなどで歌いに行く時は、いつも私の祖母(おばあちゃん)に、黒豆を煮てもらい、その甘い「つゆ」を小瓶に詰めて持ち歩き、歌う前に、ちょっと口にして喉を潤していたようです。黒豆のつゆは、喉によく、いい声が出ると言っていました。
3年生の時、彼は人命救助で表彰されたことがありました。その時の証人は私です。
ボートに乗せてくれと言うので、練習中のボートに乗せて一周し、練習後、西波止場前の岸壁でボートを引き揚げていた時、サブちゃんが大声で私を呼ぶので、「何だ」と言って、彼の指さす方向を見たところ、漁船の間に子どもが浮んでおり、「アッと」思った瞬間、彼が学生服を着たまま飛び込んで、子どもを助け上げたと言う事案です。
翌日、新聞に大きく報道され、警察署長からも、善行を讃えられ、感謝状が贈られていました。
卒業後、彼は東京の歌手になるための専門学校へ、私は警察官の道に進みました。
1年後の夏、突然、彼が私の家を訪ねて来たので、びっくりして「どうした、何かあったのか」と尋ねると、「学校は辞めた、半端な事じゃ歌手になれない、もう一度やり直す」と言うので、「がんばれヨ!」と激励し、その時はそれで別れました。
恐らく、学校のことじゃなく、歌手になるためには、良い先生に付いてレッスンを受けなければならず、経済面で大変だったんじゃないかと思っています。

その後、5年程「音沙汰なし」でしたが、ある日、市役所に勤めている友達から「穣(サブちゃんの本名・大野穣)が、歌手になって、テレビに出ている」と聞かされ、びっくりしてテレビに注目していたところ、紛れもなく大野穣君が、歌手『北島三郎』として歌っており、驚いてしまいました。
ほどなく、彼は、函館に凱旋、あの思い出の公楽劇場のステージに立ったのです。
その晴れ姿を見て、「よくぞ頑張ったな」と、只々、感激で一杯でした。
その後、彼から聞いた話ですが、歌手になれた「いきさつ・キッカケ」は、渋谷での流し時代、風邪気味だったので、「今日は休む」と奥さんに話したところ、「駄目、行ってきなさい」と尻を叩かれ、しぶしぶ出かけ、いつもの路地裏でギターを弾きながら流していたところ、馴染みのスナックのママから、「大ちゃん、一寸、おいで」 (本名の大野の大をとって)と、声が掛かり、「今晩は」と言って店に入ったところ、カウンターに一人の男性が座っており、ママが、「先生この子、とっても歌がうまいから、一寸、聞いてやって」と頼んだところ、「歌ってみなさい」と言われ、その場で何曲か歌ったところ、「うーん」と言って、ポケットから名刺を取り出し、何やら書いて、「これを持って何月何日、新宿の伊勢丹デパート裏の船村徹先生のお宅を訪ねなさい」と言われ、その時の、それが、キッカケで、船村先生の門下生となり、歌手への道へと繋がって行ったそうです。
その男性は、船村先生のディレクターで、あの時休んでいたら、「俺の歌手の道は無かった」といつも話しておりました。
ご存じの通り、その後はトントン拍子、『なみだ船』から始まって今日まで、NHK紅白歌合戦に50回も出演するなど、歌謡界では、美空ひばりと並ぶ『大御所』にまで、登り詰めていました。
記念の祝賀会も、これまで歌手生活40周年をはじめ、3回開催されましたが、いずれも招待され出席して来ました。
東京の高輪のプリンスホテルで開催された、55周年の時には、600人のお客様が招かれ、歌手だけでも80人もおり、徳光和夫アナウンサーの司会で、全員がステージに上がり、サブちゃんの代表曲『風雪ながれ旅』 を合唱したときは、圧巻で、私も、つい大きな声で歌ってしまいました。
ちなみに当時のご祝儀ですが、一般は3万円、歌手やタレントさん達は、10万円が相場だったと聞いております。
年金暮らしの私としては大変でしたが、2回目からは会費制となり、サブちゃんが私の会費とホテル代を出してくれていました。
彼は55周年のお祝いの少し前に、自宅で転び頸椎を損傷し、手術を受けましたが、歩行が困難になっていたようです。
確かにステージの上でも、お孫さんに手を引かれたり、椅子に座ったりして、つらそうでした。
最近は、体調のこともあってかあまり歌っていませんが、原穣二というペンネームで、作曲家としても活躍しており、まだまだ元気でいてくれると思っています。
奇しくも、今日10月4日は、サブちゃんの89歳の誕生日。
大きな声で「けっぱれ!サブちゃん」とエールを贈ってやりたいと思います。
私も、90歳まで元気で楽しく生きようを胸に秘め頑張って来ましたが、とうとう89歳になってしまいました。
足腰は、ちょっと弱っていますが、頭の方は、しっかりしており、口の方は、益々達者なので、100歳まで元気で楽しく生きように切り替えて、頑張ってみようかなと思っています。
ご清聴ありがとうございました。


《令和7年(2025年)10月4日(土) つゝじヶ丘同窓会総会・懇親会 卓話》